2011年08月10日

介助員のバイトを始めてから1年以上が経過した平成21年9月、2回目の司法試験も不合格。。
書籍代や予備校代を捻出するため、3回目受験に向けてバイトを継続。

子供達は思った以上に成長する。
あんなに言うことを聞かなかった児童が、落ち着くようになったり。
暴力や暴言が酷かった児童が、他人へのやさしさを見せるようになったり。
字が書けなかった子が、書けるようになったり。
できないことができるようになるのは見ていて嬉しい。
一生懸命の児童たちの姿を見ていると、私も受験を頑張らなければと逆に励まされていた。

児童と信頼関係ができてきて、私になついてくれてくると、子供嫌いの私でも児童が可愛く思えてきた(注:変な意味じゃないですよ)。
児童たちとは色々な話しをした。
一つのことにマニアックにこだわる児童が多いのでマニアック話しを聞いてあげるのも重要な仕事だ。
電車の話しや怪獣の話しやヒーロー戦隊の話しなどなど。
ピカチュウは知らないので、聞いてるふりをしていた。
高学年の男子児童からは恋愛相談も受けた。
喧嘩して先生に怒られたのが悔しくて泣いていて教室に戻れない男子児童と、別室で話しを聞きながら二人で給食を食べたり。

学校というのは行事がいっぱいある。
運動会、学芸会、発表会、遠足、社会科見学などなど。
私もオカンに弁当を作ってもらって、手をつないで様々な場所に遠足に行ったさ。
私はおやつを持って行かないので、いつも児童から貰っていた。
「先生おやつあげる」と持ってきてくれる児童もいた。
行事は準備に大変だけど、みんな良く頑張って、すばらしい作品や演技ができると、児童はもちろんのこと、先生方や介助員も皆で一緒に達成感を味わうことができて楽しかった。
夏のプールもみんな良く頑張っていたなぁ。

ゆっくりではあるが、児童たちは、一つ一つ、着実に成長していく。
その成長を手助けできるやり甲斐のあるいい仕事だと思った。

他方、いくら経験を積んでも、裏切られることは日常茶飯事である。
ほんのちょっと前まで仲良く接していたのに、いきなり暴言を浴びせられたり。
最初の頃は私もブチ切れていましたが、我慢して冷静に対処できるようになった(と思う)。
気が滅入ってしまうが、それも仕事の一つである。

結局、平成22年の3月末まで1年9か月もバイトした。
3回目の受験準備のために辞めさせてもらったのである。

辞める少し前に英語しか話せない手を焼かせる児童が転校してきて、私が専属のような形で介助をしており、様々なバトルを繰り広げて苦労していた。
英語で激しく叱ったりもしたが、関わっているうちに少しずつ信頼関係が出来てきた。
私が司法試験受験の準備のために辞めることになったと伝えたときに、「No.Lawyer.No.Lawyer」と言いながら辞めないでくれと涙を流して抱きつかれたときには、もらい泣きしそうになった。
今でも、その児童は一番好きな先生はと聞かれると私の名前を挙げるらしい。
日本語はもうペラペラ。

どの児童もみんな強く印象に残っている。それぞれ色々なエピソードがある。
児童たちにしてみれば、少し色の入ったメガネをした口の悪いアゴ髭介助員だったと思う。
介助員っぽくなく、そこら辺の兄ちゃんのようなスタンスで自然体でやっていたのが良かったのかもしれない。
少しの間だったが、児童たちの人生に少しでも影響を与えられたならば本望である。
「あー、そう言えば怖いヒゲ介助員がいたなー。」でオーケー。
これからも困難な事があると思うけど、乗り越えて頑張ってもらいたい。
また、困ったことがあればいつでも相談してもらいたい。

先生方や同僚の介助員の方々や保護者の方々には、送別会を開いて下さったり、合格祝いをして下さったりと大変お世話になりました。
ある先生に「江戸野郎さんには、どの児童でも任せられます。」と言って頂けるようになったのは嬉しかった。
司法試験がダメだったら、本職にしようかとほんの少しだけ考えたこともある。

正直、中学高校の私のキャラクターからは、こういう仕事を経験できたことに自分が一番驚いているし、逆に児童たちから教えてもらうことの方が多かったような気がする。

実家に戻ったら、元気な児童たちの顔を見に、学校に顔を出してみようと思う。
せっかくの貴重な経験を活かして、法律関係で何か役に立てることはないかと思案中。

終わり

edo_yaroh at 18:39コメント(5)バイト遍歴 

2011年08月09日

「今日は低学年の○○君と○○ちゃんをお願いします。」てな感じで、朝に担当する児童が割り当てられる。
一応、児童からは「先生」と呼ばれるので正直照れくさいったらありゃしない。

黒板に向かって前を向いて先生の話しを聞くようにさせるだけで大変。
落ち着いている児童もいれば、落ち着かず絶えず授業に関係ないことを話したり、席を立ってしまう児童もいる。
最初の頃は、個々の児童の個性に合わせた指導の仕方が分からず、やみくもに力任せに言うことを聞かせようとしていたが、中々うまくいかない。
走るのが好きな児童は、少し目を離すと授業中でも教室を飛び出して学校の外へ行ってしまったり・・・。
追い掛けても追いつかず(マジで早い)、その子を追い掛けるためにスニーカーを買った。。

口が達者な児童にはストレスが溜まる。
正直、この糞ガキ!と思ったことも度々ある。
何で言うことを聞かないのだろうと腹が立つことも多々あった。

少し慣れてきたなと思った平成20年の9月。めでたく?司法試験に不合格でバイト継続。
人員が足りなかったので、先生方は不合格にガッツポーズだったらしい(もちろん冗談ですよ)。

そのうち、児童たちの個性が徐々に分かるようになってきた。
関わり方や言葉を少し変えるだけで、児童たちの反応や信頼関係が全く変わる。
過度に干渉するよりも少し見守るようにした方がよかったり、力任せに遊びを中断させず「それが終わったら授業の時間だから一緒に教室へ行こう」と言ってみたり、何でやらないのかではなく「一緒にやってみよう」と言ってみたり。

色々と試行錯誤したが、児童たちを理解することが一番大事だと思った。
年に何回か行われる研修に参加したり、自主的に障害の本を読んで勉強したことは理解を深める一助になった。
それを学校の現場で児童の個性に合わせて実践してみる。失敗する。また試行錯誤してみる。
その繰り返しで、概ね、うまく介助ができるようになってきた。

つづく

edo_yaroh at 23:57コメント(0)バイト遍歴 

2011年08月06日

飲み会帰りで酔った勢いであえて誤解を恐れずに一気に書く。
すべての広島市民に一般的に言えるかどうかはさておいて経験的体験的に記述するのであしからず。

今年もまた8月6日がやってきた。
66年前に広島に人類初の原子爆弾が落とされた日。

8月6日の広島の様子は6年前に記事に書いたので重複するので省略する。

さて、原爆と「私」との関わりであるが、正直、小学生の頃から原爆には相当詳しかった。
というのは、品川区は非核平和都市宣言をしており(どんな意味があるのだろうと疑問はあるが)、近所の区立図書館にはかなりの量の原爆関係の図書が集められており、当然、私も「はだしのゲン」を繰り返し読んで、原爆の悲惨さについては認識していた。
「はだしのゲン」自体は、大人になって見返してみると、政治的にかなり偏った左翼的思想が強く(戦争責任や歴史的事実について検証が必要な事項を一方的見解から断定した記述や、客観的事実と異なった描写、例えば、原爆にパラシュートがついていたり、人類初の原爆実験にアインシュタインがいたり)、中々問題のある漫画ではあるのだが、小学生の自分に原爆の悲惨さ十分に理解させてくれた。
漫画では飽きたらず、原爆写真集や核兵器の本を片っ端から借りてきて家で読む、変な小学生だった。
原爆を始め水爆や中性子爆弾の本をむさぼり読んでる小学生のオレって変?

そんな訳で、特に広島は、縁もゆかりもないのに、子供の頃から知らない町ではなかった。
30歳で法科大学院に入学する際にも、何故か昔から慣れ親しんだ町のように自然に広島を選んで入学した。
住んでみたかったのである。

広島で同級生と話しをすると、心情的反核左翼が多いことに驚いた。
心情的反核左翼というのは、要するに、子供の頃から「平和教育」を受けて、本質的な政治的立場とは違う次元で、核兵器の絶対悪=軍隊の絶対悪=日本は悪い国と教え込まれている人々、である。
もちろん、私は「平和教育」自体を否定するつもりはない。
被爆者の貴重な話を聞いたり、原爆の被害について勉強をすることは大事だと思う。
私が小学生の頃に自主的に図書館で勉強していたことと同じだ。
戦争のない平和な世界を望まない者はいない。

しかし、問題なのは、「平和教育」に名を借りて、日教組が「原爆の被害」→「戦争の絶対悪」→「戦前の軍部の絶対悪」→「戦前の日本は悪い国」→「日の丸・君が代も絶対悪」と教え込んでいることである。
彼らのいう画一的な政府による軍国主義教育を否定しながら、戦後になって左翼的思想を児童生徒に洗脳しているのだから、開いた口が塞がらない。
そして、「平和教育」自体を受けているという認識を有しながら、それが歪んだ左翼思想であることを認識していない広島市民は多い。

国際法で認められた外交の最終手段としての自衛戦争を認めるか否かがリトマス試験紙になると思う。
「原爆を落とされたのは戦前の軍国主義が悪い」と教え込まれている心情的反核左翼の多くは、これを否定するであろう。
アメリカの核の傘で守られているにも関わらず(その是非はさておいて)、盲目的に「核兵器の絶対悪(といいながら原水協は旧ソ連の核兵器は容認してた)、戦争は絶対悪」と教え込まれている心情的反核左翼の多くは、同じくこれを否定するであろう。

この認識が市民スタンダードであり、違った意見を言える雰囲気でない。
大学院の同級生と話しをすると、「江戸野郎さんのような意見の人は初めてです」と何回か言われたことがある。
私の意見は単純。
原爆投下の主な被害者は非戦闘員であり、明確な国際法違反かつ虐殺行為だ。
過ちは繰り返しませんとは何事だ。過ちを犯したのは米軍だ。
核兵器を使用することと、抑止力として保有することは別問題。議論を排除することはおかしい。
ただこれだけ。

一般の広島市民に比べれば、原爆やその被害について、私の方が詳しいという自負はある。
だからこそ、「二度と繰り返させない」ために、国際政治の動向を見極め、国防を十分にしなければならないと普通の事を言っているだけである。
これは普通の意見ではないらしい。

次回、広島で8月6日を迎えるときには、広島市民ではない反戦平和運動家、団体及び過激派のどんちゃん騒ぎの中でなく、靜かに原爆の犠牲となった広島の人々のご冥福をお祈りしたい。

edo_yaroh at 02:36コメント(0)ひとりごと 

2011年08月02日

介助員のバイトは朝8時15分から午後までの勤務。
曜日によって4時間目まで、5時間目まで、6時間目までの日がある。
朝は8時13分に家を出て14分に教室に到着できるので楽ちんだ(笑)
私は週2~3回のシフトにしてもらった。

朝の会と帰りの会は全体で行うが、授業は低学年、中学年、高学年と3クラスに別れて行われる。
それぞれ担任の先生がいて、児童数や障害の程度に応じて介助員が配属される。
全体で児童10数人、担任3人、介助員3人程度という構成だっただろうか。
勤務2年目に児童が増えて20人近くなったときは、担任4名、介助員4名程度だっただろうか。
体育や音楽の授業は全体で行う。
介助員の人は、本職でやっている人もいれば、主婦の人もいる。

特別支援学級の児童は当時10数人いて、いろんな児童がいた。
話せる児童、話せない児童。
言うことを聞く児童、聞かない児童。
授業中ずっと座っていられる児童、どっか行っちゃう児童。
ある程度勉強できる児童、全くできない児童。
給食を食べられる児童、好き嫌いが多い児童。
朝、一人で学校に来られる児童、親と一緒に来る児童。
一人で着替えの出来る児童、なかなか出来ない児童。

総じて言えるのは、皆、とりあえず一人でトイレは出来ることだ。
詳しくは知らないけど、トイレが出来ることは入学の条件になっているのかもしれない。

昔の身障学級と比較して驚いたのは、会話もきちんと出来て見た目も普通の児童が相当数いたことだ。
普通に会話も出来るし、好奇心は旺盛だし、勉強も少し遅れているが、ある程度できる。
でも、じっとしていなかったり、空気が読めなかったり、洒落や皮肉が通じなかったり、気にくわないことがあると暴力的になったりすることがある。
こういった障害はアスペルガー症候群やADHD(注意欠陥・多動性障害)といって、私が子供の頃は普通学級にいて個性的な児童とされていたのが、ここ最近、医学的に「障害」とカテゴラズされるようになり特別支援学級に入ってくるのである(厳密にはアスペルガー症候群とADHDとは異なるが共通する部分も多い)。
他校の普通学級にいたがトラブルが多く、特別支援学級のある私の勤務校に転校してケースが多い。

さて、自称ちょい悪の素人おっさん。どうなることやら。

つづく

edo_yaroh at 08:48コメント(0)バイト遍歴 

2011年07月29日

久々に「バイト遍歴」カテゴリーの記事を書いてみようと思う。
多分、最後のバイトになると思う(笑)


平成20年7月から同22年3月まで、母校の小学校の特別支援学級の介助員のバイトをしていた。
特別支援学級というのは、ダウン症や広汎性発達障害(自閉症、アスペルガー症候群、多動性障害、知的障害など)の子供たちのクラス。
私が子供の頃は「身障学級」と呼んでいたが、法律が変わって、現在は「特別支援学級」と呼ばれている。
介助員の仕事は、子供達の勉強を手伝ったり、一緒に遊んだり、要するに学校生活全般において子供たちの世話をして先生の補助をする仕事。

平成20年6月に広島から品川の実家に戻り、暇な日々を送っていたが、近所の幼馴染みの寿司屋のT君が昼間に介助員のバイトしていることから、彼に誘われて、1度見学しに行くことになった。
というのは、特別支援学級の担任をしているホーガン先生が、T君と私が小学校2年の時に担任だった先生で(T君もその先生に誘われてバイトを始めた)、バイトするかどうかは別として、私も挨拶がてら1度見学しに行くことになったのである。
ホーガン先生(注:日本人)というのは、その風貌がプロレスラーのハルクホーガンに似てるのと、私が小6の時の夏の移動教室の際に、消灯後も寝ないでいるとフライングエルボをその先生からされたのとというだけで、隠語として使っている名前である。

前の日、T君の寿司屋で飲んだお酒が少し残る中、実家から徒歩30秒の小学校に見学へ。
私が小学生だった頃と違い、校庭の入り口は厳重にロックされており(大阪の池田小の事件の影響)、来意をインターフォンで告げてロックを解除してもらわなければ、学校に入れないようになっている。

ホーガン先生とT君がいる高学年クラスの国語の授業中にお邪魔して、後ろに座って見学する。
子供たちが興味深そうに私のことを眺めている。
授業の終わりにホーガン先生からスピーチを頼まれ、広島のことを話した。
広島のことで知っていることは?と質問したら「知らな~い」。
原爆の話しをしたら、皆「ぽかーん」としていた。

授業が終わると、5年生の男子2人から「遊ぼう」「給食食べて行くんでしょう?」と左右から腕組みされて、そのまま遊び部屋に拉致されてしまった。
33歳オッサン独身だと子供と接することはまずないので、どう接していいか分からない(言葉使いからして分からない)ので、何とも照れくさく、不思議な気分だった。
21年振りの小学校の給食をご馳走になり、帰る際には「また、来るんでしょう?」「次はいつ来るの?」と人懐っこい子供たちに囲まれる。
特に子供が好きという訳ではないし(むしろ、躾がされていない生意気なガキんちょは嫌い)、私のような素人でも出来る仕事なのか少し不安だったが、ホーガン先生から「もし良かったら、手伝ってくれ」と言われ、晴れてバイトをすることになった。

小学校との直接の契約ではなく、NPO法人から派遣という形のため、法務博士(笑)の履歴書を書いて、一応の面接を受けて、採用。
その年の司法試験に合格すると思っていたので、合格発表の9月までの3か月間ということは伝えておいた。

そんな訳で、介助員のバイトが始まった。

つづく

edo_yaroh at 15:12コメント(2)バイト遍歴 
最新コメント
月別アーカイブ
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ